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みぎまつコラム

2008(平成20)年度

危機に直面する日本農業(2)~自給率向上に向けて~

2008年08月11日

  前回は、食料自給率および穀物自給率が各々39%と27%まで低落の一途をたどった要因に、農業基本法を中心とした過去の農業政策の誤りを指摘させて頂きました。食糧安全保障という観点が欠落したままでは、日本農業が崩壊してしまうのは自明の理です。日本の食文化が変化してきたことを踏まえた上で、一刻も早く、食糧、穀物共に自給率を大幅に引き上げていくことを農政の柱に据えた国家プロジェクトを実現していかなければ、我が国の将来は危ういと言わざるを得ません。今回はいかにして自給率を取り戻していくかを考えてみたいと思います。

 減反政策による米の生産調整(抑制)は、日本の農業文化に様々な負の遺産を残してきたと、私は認識しています。米の持ち越し在庫を減らすための強制一律減反によって、質の高い優良農地までつぶしてしまいました。補助金(補償金)行政によって、農家は当局の自給施策に対する大きな矛盾を抱きつつも、稲作放棄を余儀なくされたわけです。このことが農家の誇りや耕作意欲の減退につながったことは容易に伺えます。また、生産調整に対する補償金や転作誘導への奨励金により財政支出が増大し、食管会計の恒常的赤字も生み出しました。1993年のGATT・ウルグアイ・ラウンドの合意による輸入米によって減反が更に強化され、日本農業は悪循環に陥ったと言わざるを得ません。転作、裏作の奨励も遅々として進まず、休耕田の問題が重大な懸念材料となっています。一度荒廃した休耕地を農地に戻すには相当の労力と年月が必要になってくることは言うまでもないことです。

 他の先進諸外国が一様に自給率の向上に努め、実現していることを鑑みれば、国政と官庁は過去の失政を認め、劇的な政策転換を図らなければ、日本の農業文化や原風景の再生は不可能であり、ましてや自給率の向上など望むべくもありません。まずは、これまで40年近くも続いた減反政策を見直し、単収の高い優良農地の確保に全力を尽くしていくことが肝要になってきます。同時に、休耕地や調整水田なども再生させ、少ない農地資源の無駄遣いをなくしていかなければなりません。また、小麦、大豆、飼料作物などの裏作によって水田営農の改善へ喫緊に取り組んでいくことや、地域によっては輪作を進めていくことも必要であろうと思います。需要面からすれば、主食としてのお米の消費拡大において、学校給食はもとより、幼少からの食育を徹底させることも大事になってきます。更に、農家への所得保障制度についてですが、現時点での私の考えは、仮に導入するならば対象は全販売農家ではなく、総農家戸数の15%に当たる37万戸の専業農家に絞るべきと考えておりまして、後日改めて、制度そのものへの是非論も含めて申し述べたいと思います。余剰米対策としては、国際間協定や外交慣例上の阻害を緩和させ、良質な日本米をアジアを中心とした富裕層向けへの輸出拡大やODAでの代替支給として有効活用していく策を外交戦略を図りながら考えていかなければなりません。食料安全保障そして国土保全のためにも、一次産業を再生させていくことが国家の至上責務であることは論を待たないことです。

右松たかひろ

2008(平成20)年度, 経済・財政

医師不足の問題について~臨床研修制度~

2008年08月02日

 全国の公立病院、自治体病院の多くが経営難に陥っており、地域医療体制は崩壊の危機にさらされています。千葉県銚子市で、市内唯一の公立病院が来月(9月)いっぱいで閉鎖になることが明らかになりましたが、それを受けての市民のコメントで、「市役所がなくなるよりも、この病院がなくなる方がよほど困る」との発言が印象に残りました。この極端な発言に、地域住民の切実なる生の声が代弁されていることを、国政、厚労省、総務省、自治体は再認識しなければならないと思います。自治体病院の赤字経営は随分前から指摘されています。10年前には既に、全国の自治体病院の約半数が補助金を投入しても赤字状態になっています。民間病院の設備および医療水準向上や数の増加に伴い、自治体病院の設立当初の目的が薄れ存在意義が問われたり、非効率な経営体質を指摘されることもありますが、救急サービスを始め不採算分野を担ってきたこともまた事実です。また、地域で唯一の公立総合病院のところも少なくないことから、地域医療現場の実態をしっかりと把握し、有効な手立てや政策の見直しを図っていくことが喫緊の課題であります。

 全国で約1,000ある自治体病院の内、10年前の5割から今や約9割が赤字経営といわれています。その厳しい経営状況に追い込んだ一つの要因として、2004(平成16)年に改正した「臨床研修制度」がクローズアップされてきています。給与や保障、労働条件などで劣悪な研修環境であった大学の卒後教育の見直しを図る目的で改正されたわけですが、施行後の新たな問題としてマッチング制度が浮上してきています。研修先を自由に選べるようになったことで、研修医が都市部の病院に集中するようになり、それを端(たん)に地元大学病院が関連病院への派遣医師を引き上げることで地方の病院で医師不足に拍車がかかり、前述の銚子市立病院のように閉鎖に追い込まれる自治体病院が出てきました。病院による医師の受け入れ競争も過剰になってきており、競争力の無い病院は地域で必要な病院でさえも淘汰されるという過酷な状況になってきています。地域医療の崩壊にも直結する医師不足は看過できないところまできており、白い巨塔で社会問題になった大学病院の医局制度の透明性といかに両立を図っていくか、今、地方の医療現場は重大な局面に立っています。

右松たかひろ

2008(平成20)年度, 社会保障

竹島の領土問題について

2008年07月29日

 

 韓国政府による竹島の実効支配(占拠の既成事実化)が、1952(昭和27)年に始まり、既に56年も経過していることを重く受け止めなければなりません。結果的に韓国の実効支配(ヘリポート、船舶の接岸場、宿泊施設、灯台の建設等)に対して有効な対策を講じることができなかったことは、政治と外務省の無策を指摘されても致し方なく、問題の先送りによって、後世にツケをまわしてきたと断じざるを得ません。竹島の実効支配は、サンフランシスコ平和条約が発効する3ヶ月前に、当時の韓国大統領・李承晩(イ・スンマン)が一方的に「李承晩ライン」を宣言したことに始まります。

 竹島問題の歴史的推移を見てみますと、地図上にある鬱陵島(うつりょうとう)が竹島と呼ばれ、現在の竹島が松島と呼ばれていた時期があったことが各種文献から確認されており、17世紀前半以降に漁業等で渡航していたことも分かっています。 そして、1905(明治38)年1月に日本政府の閣議決定によって、竹島を島根県に編入し日本の領有にすることが確認され、国際法上の要件も満たしました。その後、先の大戦で日本が敗戦し、行政上の権力行使の停止地域に竹島が含まれていたにもかかわらず、連合国側は領土帰属の政策を示すものではないとし、且つ、サンフランシスコ平和条約の草案起草過程において、日本に対し韓国が竹島の領土放棄を要求した主張をも米国が退けています。然るのち、ついに韓国政府は軍事占拠に及んだわけです。

 以上のことから竹島が我が国固有の領土であることは明らかでありますので、韓国の不法占拠を一日も早く退かせるとの不退転の決意で領土交渉に臨まなければなりません。自国の領土を自らで守ることは主権国家として当たり前のことです。その当たり前のことが、56年間出来なかったところに、戦後日本の外交姿勢(及び腰外交、事なかれ外交、依頼心外交)というものが象徴されています。このことを深刻に考えていかねばなりません。

右松たかひろ

2008(平成20)年度, 外交・防衛・領土

西郷隆盛の艱難辛苦と敬天愛人

2008年06月23日

 「幾たびか辛酸を歴(へ)て、志始めて堅し。丈夫玉碎(ぎょくさい)して甎全(せんぜん)を愧(は)ず。」

 西郷精神を凝縮した「南洲翁遺訓」の第5条の教えです。現代語に訳すと、少々激しい言葉となりますが、「人の志というものは、何度も何度も、つらいことや苦しみを経て、始めて固く定まるのである。真の男子たる者は、玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げ、瓦となって、いつまでも生きながらえることを、恥とするものである」となります。ご存知の人も多いと思いますが、西郷は、二度4年8ヶ月にわたる遠島生活(潜居と流罪)を余儀なくされています。二度目は、囲牢(かこみろう)といって、流罪の極刑を受けています。激動する時代の渦中で、政局から疎外された環境に身を置かなければならなかった心境は、想像を絶するものがあり、失意の底にいたにもかかわらず、西郷はこの雌伏の時期に、「敬天愛人」に代表される、自らの人生哲学を醸成したといわれています。再び生還はありえないといわれた処罰を一身に受け、それを糧とし、人生修養の充電期間にあてることで、のちの雄飛につながり、大西郷たる大人格が完成されたのだと思います。痛烈に厳しい艱難と辛酸が、西郷たらしめた所以とも言えます。

 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」、「天を敬い、人を愛する」というあまりにも有名な言葉が、西郷隆盛の比類なき人物を表しています。 私利私欲や功名心、財産を欲する人間の業(ごう)が渦巻く中で、私心を除き、利他の心、天道に沿う生き方を実践した西郷の下に、命を惜しまぬ志ある者たちが吸い寄せられ、遂に維新という国家の大事業が完成したわけです。今は、「信念のある政治家」と「徳のある政治家」が一人でも多く出てこなければならない時と考えます。徳が軽んじられる政治であってはならないと思います。「侍」の心を持った、真のリーダーが仰望される時なのだと思います。

 試練が人をつくる、といいます。雌伏の時の過ごし方で人生が決することを考えれば、西郷の超越した大人格や思想は度重なる苦難の中で練磨され培われたものになります。そして「志」とは、少々の苦しみで諦めるようなものではなく、むしろ苦しめば苦しむほど志が確固たるものになっていくということを、西郷さんが現代の私たちに教えてくれているのだと感じております。

       

( 城山から眺める桜島の雄姿)~平成16年10月12日撮影~(城山の西郷洞窟)

右松たかひろ

2008(平成20)年度, リーダー学

危機に直面する日本農業(1)~食料自給率~

2008年06月10日

 戦後日本の食料自給率が著しく低落をした要因に、1961年に制定された「農業基本法」を挙げる方が少なくないと思います。日本農業の現状、各種数値結果を見る限り、明らかな失政であり、官僚の失態とも言うべき、この法律は1999年に「食料・農業・農村基本法」に移行され廃止となったわけですが、今は過去の農業政策を様々な角度で検証し、本質的に見直すと共に、現場である農家の声も汲み取った内容へと転換しなければならないと考えます。農業基本法が制定される前年の昭和35年に、食料自給率および穀物自給率が各々79%と82%あったものが、基本法の制定後は低落の一途をたどり、直近の平成18年には各々39%と27%まで落ち込んでいます。エネルギー政策と同様、国益や国家戦略上、その中核を成すはずの食料政策をおろそかにしてきたツケは極めて大きいと言わざるを得ません。今、仮に有事や飢餓が発生すれば、各国は輸出を緊縮して国内供給を優先するのは明らかで、我が国の食生活は、たちどころに立ち行かなくなります。

 先進諸外国と比べると更に、我が国の食料自給率の凋落がいかに深刻なものであるのかが分かります。アメリカは昭和36年の119%から平成15年に128%に上昇、イギリスは同42%から同70%に上昇、フランスは同99%から同122%に上昇、我が国と同じく先の大戦で敗戦したドイツも同67%から同84%に上昇しているわけです。このことからも、日本の自給率低下が先進諸国の中でも日本特有の現象であることが理解出来ると思います。

 食料自給率の低下を、食生活の変化や米の消費減退、畜産物や油脂等の消費増大に原因があるとする前に、過去の農政の失敗を自覚することがまず先であり、それが出来なければ、同じ轍を踏み、日本の農業はまさに崩壊してしまうのは自明であろうと思います。農業基本法に、「食糧安全保障」という観点が欠落しており、作物の選択的拡大生産や農家の自立など、掲げた目標の達成も図られていない現実を考えていかなければなりません。

 8年前に公表した「食料・農業・農村基本計画」で、初めて食料自給率の目標を定めたことは一定の前進ではありましが、残念なことに現状において掲げた目標を達成する可能性は低いと言わざるを得ません。公表から10年後、即ち2010年度の目標数値が、食料自給率の45%に対して2006年が39%(前年比-1%)、穀物自給率が30%に対して27%(前年比-1%)になっている次第です。今は、農水省の功罪をしっかりと検証し、机上の論理ではなく現実を直視し、現場を知悉した上で、政策を立て遂行していかなければならない時だと思います。

 存亡の危機に立たされる我が国の農業について、第一回目は食料自給率という農政課題を取り上げました。今後順次、様々な農政課題について問題提起してまいりたいと思います。

右松たかひろ

2008(平成20)年度, 経済・財政

ごあいさつ~不惑の歳、雌伏の時~

2008年06月08日

 皆さま、こんにちは。右松たかひろです。

  先日40歳になりました。40代とは、論語で言う「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」になぞらえば、惑うことがなくなり、自身の天命を知るまでの10年間となります。今は、この雌伏(しふく)の時を辛抱し、志を見失わず、為すべき事を積み重ねていくことに専念する時と自らに言い聞かせております。

 この半生を振り返ると、20代の半ばで仕事に大きな試練が訪れました。それを乗り越え、政治活動に入るまでの11年間やり通し結果を出すことが出来たのは、良き同僚・上司に巡り会えた幸運と、「信じる力」そして「執念」がそこにあったからではないかと思います。勿論、その二つの力も、毎日100軒から200軒もの飛び込み訪問をこなしてきた日常活動に対する自負が根底にあったわけですが、 この経験・体得が、今の私を形成していると感じています。

 地元での政治活動に入ってからまもなく丸3年を迎えます。この間に一つの選挙を経て、様々な葛藤や忸怩(じくじ)たる思いを味わうも、皆さまのお陰で気持ちを切らさずにここまで戻って来ることが出来ました。もう、失うものはありませんし、あとは自らの志を信じて、這い上がっていくだけだと信じております。私の体に染み込んだ「志を信じる力」と「執念」を、来たるべき時に備えて培っておきたいと決意しておりますので、どうかこれからもご支援を賜りますよう宜しくお願いいたします。

右松たかひろ

2008(平成20)年度, 政治信条

自民党の党是:自主憲法の制定に向けて(2)~前文~

2008年05月29日

 第1回は憲法を考えていく前提として、その成り立ち・成立の過程について触れ、国民が自らの手によって憲法を創る、自主憲法を定めることの意義を書かせて頂きました。 今回から、個別の内容に入っていきたいと思いますが、まず前文について考えたいと思います。前文は、日本という国がどういう国なのかが日本国民はもとより諸外国の人たちからも分かり、併せて、国家の理念、国の目指すところが何なのかということを明記することが肝要になってきます。

 現行の日本国憲法の前文を読んでみますと、始めの段落に、人類普遍の原理として、主権在民の宣言と選挙で選ばれた国民の代表者が権力を行使し、その福利は国民が享受する、とあります。そして次の段落では、日本国民が恒久の平和を念願することと、全世界の国民が平和のうちに生存する権利を有することを確認する、とあります。そして三段目に、いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないという普遍的な政治道徳を謳っています。

 下に添付の憲法前文から、細かい内容で腑に落ちない点を順に申し上げると、1点目が下線①の部分です。過ちを政府の行為とはねつけるのではなく、国や先祖の責任を自らの責任と捉えることで、国への帰属意識(愛国心)や参政の意識も高まり、能動的に国家の存在価値を高めていこうと意識付けが出来るわけで、国家と国民を切り離す行為、政府と国民が一体であることを否定することは、引いては、自国の力を弱めることに他ならないと考えます。2点目が下線②の部分で、他国民の性善説に我が国の安全と生存を委ねるとは、主権国家としてはあまりにも危険で、かつ受動的過ぎると考えます。これでは自国への誇りや国際平和に向けて主体的に取り組もうとする力を培うことは難しいものと考えます。そして3点目の下線③の部分ですが、日本語の使い方もさることながら、理念が先行し、どこの国の憲法か分からない内容になっています。

 しかし何と言いましても、残念ながら、この前文では大事なことが欠落していると言わなければなりません。その欠落しているものが、我が国の悠久の歴史であり、伝統や文化であり、国の矜持なのです。 また、日本語の使い方も、もう少し分かりやすく、親しみやすい文体に変えていく必要があると思います。なお、前文が国連憲章(国際連合憲章)に似通っているところに、国籍不明となってしまう所以があると考えます。

 最後に、自主憲法を制定するにおいて、前文をつくる際に押さえておくべきポイントを下記に挙げたいと存じます。

 一、我が国の伝統精神~「和を尊ぶ」「衆知を集める」「主体性を持つ。主座を保つ」
 二、自然を畏れ、自然と共生をする文化
 三、有史以来、天皇陛下が日本の元首であり、これからも我が国の発展と共に歩まれること
 四、国際平和、諸国民の共存互恵の実現に資するを国家の目指すところに置く
 五、国民の自由と権利を尊重するとともに国家の一員としての責任も有す
 六、国と国民が共に、新しい国づくりへ進むことを期す

◆【自民党:今こそ自主憲法の制定を(自民党ホームページ「コラム」】~平成26年(2014年)10月に追記

右松たかひろ

2008(平成20)年度, 憲法改正

公職選挙法改正の方向性について

2008年05月15日

 公職選挙法の改正に向けての動きを注視しています。自民党の選挙制度調査会が選挙運動の規制緩和について主な8項目について合意され、今後は野党とも調整し、今国会中にも議員立法で改正案を提出することが3月11日に了承されました。 今国会の会期が残り1ヶ月弱に迫ってきている中で、未だ法案が提出されない現状に懸念を抱きつつも、「世界でも類を見ない内容」とも言われる我が国の公職選挙法において、時代にそぐわない内容や必要以上に規制がかけられた内容については、国政に携わる者の責務として、そして何よりも国民が政治との接点をより深め政治への関心を高めていく上でも、一刻も早く改めるべきであろうと考えます。合意内容について、当初の報告書案では明記をされていたものが反対論が相次ぎ盛り込まれなかったものがあります。具体的には、政党や団体の政治活動用ポスターの選挙前一定期間内(任期前6ヶ月以降に横行するの政党二連ポスター)掲示禁止や慶弔電報の禁止などです。やはり、政党人(公認者)や現職の優位性は保っておきたいとの思惑が無いとは言い切れない内容です。一致した項目で主なものは、屋内演説会場での映写の解禁や選挙カーの車種緩和や取り付ける文書の自由化、選挙ポスターの規格統一などです。しかし、もっと実態や時代に即した改正案、例えば、インターネット選挙の全面解禁や政党候補者と無所属候補者の選挙運動における様々な差別の撤廃や事前規制などについて踏み込んでいかなければ、有権者のための法改正とは言えないわけです。

 投票率の低さや選挙への無関心が改善されない一つの要因に、公職選挙法を挙げている方が少なからずおられます。候補者について限られた情報や方法でしか入手が出来ない現行の公職選挙法では、有権者に正確で分かりやすい情報の提供を阻害しかねないとも限りません。良い候補者を選定するために欠かせない、国民の知る権利を十分に満たした選挙法へと改めていく必要があります。民主主義の根幹を成す選挙制度は、もっと国民や有権者に開かれたものでなくてはならないと考える次第です。

右松たかひろ

2008(平成20)年度, 選挙制度

日本および日本人の国際社会での使命

2008年05月10日

 20世紀が世界戦争の時代ならば、21世紀初頭は地域紛争・テロの時代と言えます。19世紀の植民地政策の時代を経て、20世紀は科学技術の飛躍的発展と共に大量殺戮を可能とする化学兵器も生み出され、国際社会を巻き込み二度の世界大戦というかつてない大規模戦争を経験することとなりました。ソビエト連邦の崩壊によって米ソ二大国の東西冷戦が終結したのが20世紀終わりの1991年で、その後は社会主義体制下におかれた旧東側地域を中心に民族・宗教間の対立が引き金となり地域紛争が多発していく中で、世界のパワーバランスはアメリカが唯一の超大国となり一国覇権主義へと大きく転換し、世界も驚愕した「アメリカ同時多発テロ(いわゆる9.11)」という、今後の国際社会を暗示する象徴的な事件によって21世紀が幕開けすることとなりました。その後は周知の通り、翌2002年1月にブッシュ大統領の一般教書演説での「悪の枢軸」発言に沿って、アメリカ主導の多国籍軍による武力行使が徹底的に行われました。兵器も今やIT革命によるハイテク兵器へと変貌し、戦争の形態も国家間よりもテロ組織や過激派集団との戦争行為が増えて来ています。

 私は、このような国際状況下において、日本の果たす役割は決して小さいものではないと思っています。むしろ我が国は、東洋人としての民族の苦難を経験し克服もしてきた誇りがあり、且つ唯一の被爆国として戦争の凄惨さも知り得る立場から、「国際平和を導く」という大変重い使命があるものと認識しています。そこには、防衛力(武力)を放棄して国際平和を実現しようと試みる観念的平和主義に組する考えはなく、あくまでも日本の歴史や伝統・文化を基調とした国柄、経済力や軍事力などの国力、そして日本人の勤勉さや協調性、和を尊しとする国民性といった日本および日本人の総合力をバックボーンに、現実路線で戦略的に国際平和へ向けて主導していくことが肝要と考えている次第です。

 日本および日本人の総合力を発揮していくには、我が国の潜勢力を掘り起こしていかなければなりません。そのためには、「普通の国」になることです。普通の国になってこそ初めて国際社会での発言力も出てくるものです。「普通の国」とは、自らの憲法を持ち、自らの国は自らで守るという国際社会においては当たり前の国家の姿にあります。国際平和へ導くという使命を実現する上でも、日本はもう一度生まれ変わらなければなりません。

右松たかひろ

2008(平成20)年度, 国際平和・社会

吉田松陰の至誠と知行合一

2008年05月05日

 私の私淑する歴史上の人物で、まず真っ先に挙げたい人が、明治維新の胎動を起こした、不世出の指導者、吉田松陰です。吉田松陰という人物は、「至誠」と「知行合一」を抜きにして語ることはできません。 私は、現代日本の政治リーダーに、最も必要とする資質こそが、この至誠と知行合一だと思います。「至誠」とは、読んで字のごとく、極めて誠実なこと、真心(まごころ)・誠を尽くすことです。そこには、軽薄さや姑息な心は微塵も存在しません。そして、人を信じ、他人を活かすためには自己犠牲をもいとわない、高尚で純粋な心を松陰は持っていました。獄中で書いた遺書ともいうべき「留魂録」に、「私が死んだのち、もし同志の諸君の中に私の真心を憐れみ、志を受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである」と書き記しています。天下国家のためには自らの死を持ってしてでも、同志に後世を託す、その至誠は人間として究極の美学であると深く感じ入ってしまいます。また、松陰を象徴するもう一つの言葉である「知行合一」は陽明学の真理でもあります。松陰は常々、門下生に「学者になってはいかぬ。人は実行が第一である。学んでも行動しなければ社会の役には立たず、学ばずに行動すれば社会に害をもたらす。」と言ったとされます。松陰のその類まれな行動力に、至誠が伴っていたからこそ、志ある者がどんどん感化されていったわけです。そしてその至誠は、祖国、先祖を愛し、救国済民のために、国柄を生かし正しい国のかたちをつくろうとする政治思想の裏付けがあったことは言うまでもありません。

 ちょうど今から5年半前、平成14年10月25日から26日にかけて1泊2日で山口県の下関や長府の功山寺、萩の城下町を、当時の琴線に触れるべく一人旅したことを思い出します。史跡巡りをしながら何ともいえない幸福感や気持ちの高ぶりを感じ、志を固めたのを覚えています。

 リーダーというものは、「志の高さ」によって価値が決まるのであって、今の地位や過去の業績、年齢、ましてや貧富などによって価値が決まるものではないことを申し上げて、リーダー学での初稿の結びとさせて頂きます。

      

 (下関市の櫻山神社招魂場/中央が松陰の霊標)               (萩市の松下村塾跡)

右松たかひろ

2008(平成20)年度, リーダー学

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